御聖体と聖母の使徒トップページへ    聖人の歩んだ道のページへ     不思議のメダイのページへ    聖ヨゼフのロザリオのページへ


聖アダルベルト司教殉教者     St. Adalbertus Ep. et Mart.       記念日 4月 22日


 中央ヨーロッパの一小公教国、チェコ・スロバキアの首府プラハは、古来文化の中心地として世に聞こえているが、それにもまして同市の誉れとなるのはヨハネ・ネポムク(5月16日)、ヴェンセスラオ王(9月28日)それに本日記念されるアダルベルト司教の三聖人を出したことである。

 このアダルベルトは956年同市のスラヴニクという貴族の家に生まれ、受洗の時にはヴォイテクと名付けられた。両親は始め彼に家をつがせるつもりであったが、そのまだ子供の内に大病に罹った時、付近の聖堂の聖母像の前へ連れ行き、もしこの子の病を癒して下されば、必ず聖職者にして天主に献げますと祈願をこめた所、それが聴かれたので、誓いのままにその後彼をマグデブルグ大司教座付属神学校に入学させた。ヴォイテクが恩人なる同大司教の名をとって、アダルベルトと改名したのは、そこに在学中堅信の秘跡を受けた折りのことであった。

 後アダルベルトは25歳の時プラハに戻り、叙階せられて司祭になった。そして27歳の時ヂートマル司教の死去の後を受けて、後任司教に推薦された。まだ若年の身であったものの、平素からその徳望は信徒間にあまねく、誰一人彼の司教就任を希望せぬ者はなかったからである。ただ驚いたのはアダルベルト自身であった。彼はよもやオットー皇帝がかかる破格の叙任をお許しになるまいと思い、不肖の身の大任を免れん事をひそかに希って已まなかったが、案に相違して皇帝も造作なく御聴許になり、逃れる途なくアダルベルトは司教の祝聖式を受けたのであった
 しかし謙遜な彼は司教になっても決して決して思い上がるようなことはなかった。むしろその重職を辱めはせぬかと日夜改心して、祈りに修徳に任務の遂行に、倍旧の熱心をもって当たった。「司教冠を戴き、司牧杖を握って、威儀厳然と控えている様を見れば、司教はこの上もない栄誉ある望ましい地位のように思われるかも知れぬが、その職責がどれほど重くつらいものであるかは、蓋し公審判の日にあきらかになろう」とは、彼が日頃傍らの人にその苦衷を漏らした言葉である。
 で、彼は司教の重責を遺憾なく果たすために、己が収入を四分し、第一は聖堂や典礼の為に、第二は貧しき聖職者補助の為に第三は貧民救済の為に、第四は己の用の為に宛てる事と定めた。彼は貧しい人々に対し、別して慈悲深い父たらん事を心がけ、施しを乞いに来た者を空手でかえすような事は、唯の一度もなかったと伝えられている。それについて次のような挿話がある。

 ある日貧しげな一人の女が彼の許に来て施しを願った。所が折り悪しく彼は一文も持ち合せもなかったので「今はあげるものがないから、明日また司教館においでなさい」と言って相手を帰しかけたが、何か心にすまぬらしく、急いで女を呼び戻し、衣服を一枚脱いで与えながら「さあ、今日はこれを取って置きなさい、明日まで私は生きていないかも知れぬから・・・」と言ったそうである。そして彼はただ有り余った中から施すばかりでなく、わざわざ不自由を忍んで自分の物を切りつめて、無理に施すことも少なくなかった。

 アダルベルトの熱心な善導と教誨にも拘わらず、当時のプラハ市民の風紀は甚だ乱れていた。で、彼はそれを苦にしてローマに行き、教皇の御承認を得てプラハの司教座を退き、ある修道院に入って修道生活を営むことにした。けれども彼が去ってからはプラハ市民の堕落は一層つのり、深憂に堪えぬものがあったので、ドイツ皇帝や市の有力者は教皇にアダルベルトの復職を懇請してきた。その結果彼はまた已むなくプラハ市に帰り、風紀の粛正に努力したが、やはり思わしい成績も得られず、淋しくも再びそこを去ってローマに赴いた。
 それからアダルベルトはハンガリーを廻って国王ガイサの王子ステファノに洗礼を授け、ローマに戻ると、又もプラハ市に帰任を命ぜられ、進まぬ心で出発した所、途中でその市民が激昂して彼の親戚を殺したという報知に接した。そこで彼は道をまげて友なるポーランド王ボレスラオを頼って行き、そこからプロシア方面に布教を試み、ダンチッヒの町で多くの改宗者を出すなど相当な効果をおさめたが、997年4月23日異教人に捕らわれ、棍棒で殴られ、槍で貫かれて壮烈な最期を遂げた。その遺骨はボレスラオ王が莫大な金額を投じて買い戻し、グネーゼン市の大聖堂に葬った。なおアダルベルトは後にチェコ・スロバキア、ポーランド、プロシア、及びハンガリーの四国から、保護の聖人と仰がれるに至った。

教訓

 キリストが司教司祭などの聖職者を立てられたのは、言うまでもなく我等をつつがなく天国に導かんとの有り難い御心から出たものである。されば羊にたとえられる我等信者が、牧者と呼ばれるこれら聖職者の指導に従うのは、畢竟天主に対する義務と言わねばならぬ。しかるにプラハの市民は、せっかくアダルベルトほどの聖人を上に戴きながら、かれの教誨に従わなかった。その罪は決して軽少ではない。聖パウロは我等に聖職者に対する心がけを諭して「汝等己が教導師に従いて之に帰服せよ、彼等は汝等の霊魂につきて、自ら報告の責めあるものとして警戒すればなり。これをかこちながらせずして、喜びてなす事を得させよ、かこちながらなすは汝等に益あらざればなり」(ヘブライ人への手紙 13−17)と言っている。